押し付け憲法論について
現行憲法を総司令部による押し付け憲法であることを理由に、改正の必要性を説く人がいます。憲法というのはその国の国民が自律的に定めるというのが原則だからです。しかし、施行後にも改正の機会があったのにも関わらず、当時の政府は必要なしとしたこと、その後70年という歳月が経ち、硬性憲法とは言え、一度の改正もしなかったことから考えて、押し付け憲法だから変えるというのは、今更感が否めません。むしろ今は、経緯云々よりも、そこに書かれている内容そのものに改正が必要か、必要ならば何故必要で、それをどう変えるかという中身の議論をすべき時です。中身に関して言えば、逆説的ですが、現行憲法は「押し付け憲法」だったからこそ、良かったと言える側面も否定できません。あれほど個人の人権を本来的なものとし、それを人類普遍の原理とまで言い切った憲法が当時の日本人に書けたかと言うと、恐らく無理だったでしょう。今の自民党の改正案が、十三条の「すべての国民は、個人として尊重される」から「個」の一文字を取ろうとしていること、そして九十七条の基本的人権の普遍性を謳った条文を丸ごと削除しようとしていることから推察して、今もその力がなく(少なくとも今の与党には)、むしろ人間の本質に関する根本的な洞察すら欠けているように思えます。元々日本社会には、そのように暗に同調を求め、個人の自立よりも調和を重んじる傾向があり、それが異論を封じ込め、先の戦争の戦禍を拡大した可能性は否めません。だからこそ、その反省の下に、二度とそれを繰り返さないための憲法が必要だったのであり、外圧でそれを押し付けられたからこそ、それが実現したとも言えます。その証拠に、今だにその同調圧力を憲法に書き込もうという政権が亡霊のように姿を現します。今の日本人により良い憲法を書けないとは言いませんが、少なくともそれができる政権を作るまでは、どうしても改正が必要な部分に絞って、慎重な議論を進めるべきです。
憲法前文の重要性
現在の日本国憲法の前文には、この憲法が何のためにあるか、その存在意義が明確に書かれています。一読すれば、それが「いかなることがあろうと」二度と戦争を繰り返さないために作られた憲法だというのがわかります。仮にそれが連合国側の意図を反映したものだとしても、その理念が長らく日本国民に受け入れられ、支持されてきたことは間違いありません。だからその改正には常に根強い反対運動が起こるのです。それを憲法改正アレルギーなどと言う人もいますが、そのアレルギーの元が、今だ癒えぬ戦争の痛み、時の政府に裏切られたという思い、そこから連綿と続く根深い政治不信が織りなす国民感情であることを理解すれば、それが単なるアレルギーではなく、とても本質的で譲れない一線であることがわかります。ですから、それは私たち個人の独立を政府から守るための砦であり、その意義を宣言する前文は礎です。その前文を丸ごと削除しようとする自民党改正案は、それを土台から崩そうとしているとしか思えません。それが正に意図なのかもしれませんが、フェア党の理念は180度違います。個人の心の自由ほど大事なものはない(国家の存続よりも遥かに重要で、個人の心の自由なき国家など存在する意味がない)との考えの下、現在の憲法の前文を全面的に支持します。そして、そこに改めて魂を入れ直し、この世に具現化する政治を目指します。何故ならそこには、正に書かれている通り、人類普遍の真理があると確信するからです。もちろん、これを本気で具現化するのは茨の道です。ただ単に憲法を保持すれば良いという話ではなく、それを言行一致の憲法にするためには、行動を改める必要があるからです。ですから、私たち一人一人が本気になり、起こりうる全ての結果を受け入れる覚悟が必要です。魂を入れ直すということはそういうことです。皆さんがどう思われるか、以下に引用しますので各自ご判断ください。そして、それを言葉通り、本気で実現しようとするフェア党を支持するかどうかも。
日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
憲法改正について
フェア党は憲法改正については反対しません。私たちの憲法ですから、必要に応じて変えれば良いのです。しかし、現行憲法に関して、特に改正に急を要するような箇所は認められません。細かい箇所は多少あるかもしれませんが、それはじっくり議論して行けば良いでしょう。例えば財政を規定した第七章にも、フェア党が主張する政府紙幣の発行による財政の抜本改革と相反する条文は認められませんし、土地の公有化に関しても、第二十九条の財産権の条文に反することはないと考えます。何故なら、その第二項で、財産権の内容は「公共の福祉」に適合するように法律でこれを定めるとあり、さらに第三項で、私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる、とあるからです。フェア党の土地公有化政策は、もちろん公共に福祉に適合するためのものであり、政府がその買い取りを保証することから鑑みて、憲法の規定内と言えるでしょう。それよりもやはり、我々が憂慮しなければならないのは第二章、戦争の放棄にある第九条、これが明らかに言行不一致であるという点です。
第九条の解釈問題について
第九条は本来、解釈の余地はありません。憲法前文を読み、そして、わざわざ「第二章、戦争の放棄」として別章仕立てにした第九条を読めば、その意図は明らかです。いかなる場合でも、日本に二度と戦争をさせないための条文です。自衛のための戦争は放棄していないとするのも詭弁です。そもそも第二項に戦力を持たないと明記してあるということは、自衛のための戦争すらできないようにするためですから。そこに連合国側の意図があったことは明らかでしょう。押し付けられたとしても、条文は条文です。そこに明文化されていることと相反する行動を取るなら、解釈を変えるのではなく、条文を改正するのが筋です。自衛隊はその意味では違憲であり、憲法との齟齬は否めません。そして、2016年に施行した安保関連法制も勿論違憲法制です。これは日本の安全保障上必要かどうかという議論以前の問題です。憲法を解釈で捻じ曲げるということは、社会契約論で言うところの市民と国家の契約を変質させることであり、正当な手続きを踏まずにそうすれば、国家そのものの正当性が破壊されます。そうなれば、国民と国家の関係性自体が成立しなくなる、つまり守るべき国民も国家もないわけで、だから安全保障以前の問題なのです。
しかし、私たちがここで認識しなければならないのは、憲法の破壊は安保関連法制で始まったことではなく、自衛隊を持ちながらも、それが自衛のためであり、必要最小限であるから第二項には違反しないという独自の解釈をしたことから始まっています。客観的に見れば、誰がどう見ても軍隊であり、海外から見れば不思議な論理でしょう。事実として、そこには世界最強の軍隊と、世界第6位相当の軍隊がいるわけですから。つまり、現実はすでに憲法から乖離しており、安保関連法制のための解釈改憲は程度問題に過ぎません。100km制限の道を120kmで走れば良いが、150kmはダメだと言うのに似ています。120kmや150kmで走る必要があるのなら、そのように改正するべきですし、そうでなければ減速する必要があります。立憲主義を標榜するなら、まずはその覚悟を決めること。その上で安全保障を考えれば、憲法をどうすべきかは自ずと決まります
日本の独立を考える
安全保障を考える上で、我々が決して避けて通れない問題があります。それは日本の自主独立です。残念ながら今の日本は、独立国とは言いがたい状態です。憲法からして、そもそも総司令部の意向が強く反映されたものです。ただ、それは敗戦の経緯があり、それを多くの日本人が受け入れ、一度も改正しようとしなかったことからして、消極的ながら我々のものになったのかもしれません。しかし、今度はそれに反する形で警察予備隊を作らされ、日米安全保障条約の締結、自衛隊の組織、そして今回の集団的自衛権行使容認と、全て米軍の補完のために行われています。主体性は一体どこにあるのでしょう?国内の要所に米軍基地があり、首都圏の制空権さえ握られています。今は同盟国かもしれませんが、元は日本を対ソ連、中国の反共最前線にするための戦略です。いつしか日米関係が良い意味で変質するにしたがって、米軍が日本を守ってくれているという錯覚が生まれていますが、占領軍が居ついた事実は変わりません。そして、あくまでもアメリカ合衆国は自国の国益のために行動し、日本のために行動するわけではないのです。当たり前のことですが、他国なのですから。そしてその他国の軍隊を国内に置き、安全保障もその傘の下に頼りきっているということの意味を、我々はよく考えるべきです。安全保障政策だけではなく、経済政策、金融政策、原発政策まで完全な独立性を確保できていません。それを是とするか非とするか。これは正解/不正解の問題ではありません。選択の問題です。それでも良いと大多数の日本人が考えれば、それも一つの選択です。そうでないとするなら、別の選択肢があります。いずれにしても、絶対的な正しさなどないのです。それによって戦争に突入したから、何人死んだから、生き残ったから良い悪いではなく、常に選ばなかった選択肢の結果は想像でしかなく、後は生き方、死に方の問題です。ただ一つだけ言えるのは、安全保障を他国に握られたままであれば、その先のあらゆる局面で、選択肢は非常に限られてくるということです。もしあなたがこの先の人生、誰かの庇護の下に生き、死ぬ心配はあまりしなくて良いかもしれないが、ほとんど自分で主体的に選ぶことはできないとしたら、どう思いますか?覚悟を持って庇護から飛び出すのか、そのまま安全(とは限らない)を選択するのか?戦後70年経った今、日本はそろそろ真剣に自主独立について考えるべきです。
今が自主独立のチャンス
日本がもし本気で自主独立を考えるなら、今がそのチャンスです。日米関係は良い意味で変質した側面もあります。もはや、日本を敵国だと思うアメリカ人はほとんどいませんし、日本人もそうです。これは長きにわたる友好関係の結果です。特に国益がぶつかり合う政府同士の関係性というよりも、民間における個人間の無数の膨大な交流がそれを作って来たのです。今なら、正当な主張をすれば受け入れられる素地ができています。相手は自由と独立の国です。我々日本人が誇りを持って自主独立を主張すれば、彼らの信条として聞かざるを得ないのがアメリカ合衆国です。でないと、アメリカの世論が許さないでしょう。ですから、日米安全保障条約、地位協定の見直し、米軍の撤退も本気で主張すれば通ります。問題は、我々日本人にその覚悟があるかどうかです。こればかりは誰も、誰にもそれを強制できませんし、全員一致ということもあり得ないでしょう。今までずっと在日米軍と自衛隊に丸投げしていたリスクを、命がけで自分たちが取ることになるのですから。それで大丈夫かどうかなど、誰にも保障できませんし、それをできない政治家を無責任と責めることもできません。決断の責任は政治家ではなく、それを選ぶ我々にあるからです。ですから結局、私たちは、私たちが選ぶ政治家も含め、そんなつもりも覚悟もなかったということでしょう。しかし、時代は今、大きく変わり始めています。そのつもりも覚悟もなくても、そのままではいられなくなるかもしれません。
まず、仮に日本がこのまま現状維持を望んでいても、その代償はどんどん高くなっているということです。集団的自衛権行使容認やTPPはその代償の一つと考えるのが妥当でしょう。これらに対して怒る人も少なくありませんが、突き詰めると、安全保障という命に関わる部分を握られているから言いなりなのです。アメリカも当然国益を考えて動くわけですから、「TPPの本質」で説明した通り、膨大な対外純債務をいかに減らすか、それにはいかに世界戦略を安く済ませるか、場合によってはプレゼンスを低下させてもそうする、というように、アメリカの政策も大きく変化する中で、もはや現状維持は現状維持ではなく、プライスもリスクも上がり続けるということです。その中で、我々はどこまでその言いなりになるか。
トランプ政権発足後、トランプ大統領は明らかに同国の財政赤字と経常赤字の解消を最優先しているように見えます。彼のディール外交はまさにアメリカのセールスマンとしてのそれであり、その中で在日米軍は交渉カードです。我々がそれに依存すればするほど、そのツケは高くつきます。彼が日本に売りつける防衛装備や遺伝子組み換え食品や高額な医薬品などはそのためのものです。このまま行けば、我々は彼らの言いなりに富を吸い上げられ続けるでしょう。のみならず、健康も著しく損なわれるかもしれません。それでも米軍に出て行かれるより良いと考えるか、決然と米軍依存から脱するか、あなたの決断はどちらでしょう?他国に追従して、主体性を失うことが、本当に私たちの命を守るでしょうか?戦争で死ななくても、たくさんの人たちが経済的に殺されていては同じことではないでしょうか?そもそも、命を長らえることだけが、生きることでしょうか?これは我々一人ひとりが答えを出さなければならない問題です。わからないは許されません。なぜなら、一人ひとりの答えを集めて計って決定するのが民主主義であり、個の積み上げなしに、集団だけが最初から存在することはないからです。
国家の安全保障とは
国家の安全保障は、国土の保全と国民の命を守ることと言います。多くの場合、それは軍事的に語られますが、実際はもっと複雑で多面的、そしてその成否は評価しがたいものです。例えば、軍事、外交的な保障と引き換えに経済的に他国に搾取され、多くの経済的な自殺者を出したとすれば、それは命を守っていることになるのかどうか。国土を軍事的に侵略されるのと、合法的に他国に土地や企業の株、国債を買収されるのと、どちらがどれだけ危険なのか。原発政策を主体的に決められないことによって、どれだけの命や健康を危険にさらすのか。それも日本人だけではなく、世界中の人々やあらゆる生物の。市場開放や為替政策によって食糧やエネルギーの自給率が低下することによって、将来どれだけの命を危険にさらすか。つまり、国家の安全保障政策というのは、軍事や外交だけに留まらず、あらゆる経済、金融、産業、通商政策を含むということです。ですから、それらを総合的に考えなければ、国家の安全保障政策としては不十分です。しかし、そうしてもなお、その成否判断も難しいというのは、常に選ばなかった政策の結果は想像でしかなく、実際に選んだ政策の歴史的な評価を修正しようとする試みも少なくないからです。300万人の命を奪った先の戦争でさえ、過ちと認めたくない人がいます。他にどんな選択肢があったか、それを選んでいればどうなっていたか。確かに誰にもわかりません。そして究極的に言えば、どんな政策を取ろうと(少子化などで)滅ぶ運命なのかもしれません、つまり、極論を言えば、確実なことなど何もなく、唯一確かなことは我々は皆、いずれ死ぬということだけです。その真実とあの戦争の悲惨さの中、我々が掴みとった真理が、 自衛のためですら二度と戦わないという「戦争放棄」だったのではないでしょうか?それを、戦争の本当の悲惨さを知らない世代が、安全保障の名の下に軍事面だけに焦点を当て、破壊しようとしているように見えます。
当たり前の話ですが、戦争というものは大抵、それ以外の全ての政策交渉、外交交渉が失敗した後に起きます。必ずしも軍事力がないから起きるわけでも、あるから起きないわけでもないのです。その意味で言えば、日本の安全保障は、現行憲法を忠実に守ったとしても、戦争という最後の手段を放棄しているだけで、それ以外の手段は全て揃っています。にも関わらず、主体性を放棄することによって、それらをフル活用できていないとすれば、主体性の回復によって最後の手段を放棄したままでも、さらに安全性を高めることは可能です。そして、それも覚悟の問題なのです。誰もその先の未来は読めません。ですから、何が正解かではなく、どうあるべきか。もっと端的に言えば、いずれ必ず終わる生を、どう生きて、どう死ぬか。
「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という言葉があります。死ぬ覚悟さえあれば、いつでも正しい道をを歩めるという意味です。逆に言えば、死を避けんがために、道を誤るなということです。そして、先人は先の戦争で膨大な血と涙を流した末に、戦争放棄という道を遺してくれました。それが、国の存亡を賭けて戦った人たちの結論であるとすれば、戦争を知らない我々が、いくら国家の安全保障のためと言っても説得力はありません。そんな道はとても怖くて歩けない、そう思う人も多いかもしれません。しかし、批判を恐れずハッキリ言えば、我々は今や、どの道を歩く覚悟もできてないのです。国家の安全保障や軍備について勇ましく言う人も、大抵は他人事でしか考えていません。自衛隊や米軍に頼りきりで、自分や自分の家族が戦うとは考えていないのです。国のために戦うかという世論調査をすれば、その覚悟がある人は一割しかいません。そもそも、自分で自分の国のために戦う意志のない人たちが、軍事力による安全保障を語る資格があるでしょうか?
死中に活を求める
しかし、物は考えようです。日本人がそこまで戦いたくないなら、本当に戦わないと決めてしまえば良いのです。そのための憲法もすでにあります。後は覚悟を決めるだけです。あり得ないと言う人も多いでしょう。もし北朝鮮や中国が攻めてきたらどうするんだ、などと言う人もいます。あなたはどうするんですか?と一人一人に聞けば、国のために戦う人が一割しかいない、それがこの国です。誰を責めるわけでもなく、誰が悪いわけでもなく、それが大多数の日本人であるという現実です。であれば、現実を踏まえた政策を取るのが現実的です。国も人も、こうあるべきとか、こうでなければならないということはないのです。それが人の生き方、死に方であり、国も人の集まりですから、その人々のあり方を反映します。今までは、どうしても戦いたくない人たちが消極的に戦いを避けるあまり、主体性を放棄し、返って多面的な安全保障のリスクを抱え、結局総合的、長期的にそれを脅かされかねない状況を生んでいたわけです。であれば、敢えて死中に活を求める。すなわち、自主独立を果たし、主体性を取り戻し、戦争以外の全ての手段を総動員して生き抜く、または最悪死ぬ覚悟を決めたらどうでしょう?
こんなことを言うと、そんな恐ろしいこととか、大丈夫かとか、無責任とか言われるかもしれません。大丈夫かどうかは誰にもわかりませんし、恐れも責任も私たち一人一人の中にあります。誰に押し付けるわけにもいかないのです。そして、絶対的な正解もありません。民主主義国家としてできる唯一のことは、それでも一人一人が自分で考えて結論を出し、多数を計ること。それで世論調査にある通り、多数の日本人が国のために戦う気がないなら、それが我々なのです。大事なことは、結果の如何に関わらず、その決断に誇りと責任を持つこと。それが自立した民主主義国家の矜持です。主体性を失って思考停止したままでは、それは得られません。しかし、曲がりなりにもそれが同朋の多数が自ら出した決断だと覚悟すれば、そしてそれが人類普遍の真理に基づく決断であれば、我々は与えられた生を悔いなく生き抜くことができるのではないでしょうか。日本国憲法の前文は正に、人類普遍の真理を謳ったものです。そして、それを命がけで実践しようとする人々の存在は、必ず世界に希望を与え、世界平和の扉を開くでしょう。世界を変えるのは、クレージーなことを本気で信じられるクレージーな人たちなのです。
日本の進むべき道
さて、ここからは現実の政治の話です。大きな方向性としては、まずは日米関係の抜本的な見直し。より具体的には、日米安全保障条約、日米地位協定、日米原子力協定の包括的な見直しが必要です。これは必ずしも破棄を前提とするわけではなく、もちろん日米関係を疎遠にするためでもありません。むしろ、戦後70年で築いてきた友好関係をベースに、日本のあらゆる分野での政策立案、実行の自主性を確保するための見直しです。ただし、そのためには破棄も辞さない覚悟がないと、まともな交渉はできません。特に、米軍の日本からの完全撤退を目指す覚悟がないと、いつまでも命綱を握られたまま従属的にならざるを得ないからです。そしてそのまま高い代償を払わせられ続ける。主体性がないとはそういうことです。ですから日本はまず、自らアメリカからの独立を果たすべきなのです。
では、米軍撤退後の安全保障をどう考えるか?基本的には自衛隊による国防ということになりますが、ここで問題になるのは憲法との整合性です。戦力を持たないとする九条との齟齬がありますので、1.憲法を改正して自衛隊を軍隊として認める、か、2.自衛隊を解体して、文字通り「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」しようとするか。論理的にすっきりさせるなら、そのどちらかしかありません。しかし、いずれも選びたくない人のために、第三の提案があります。それは、自衛隊を専守防衛の国内軍と定義づけ、従前の個別的自衛権のみ認めるという解釈を継続しながら「期限を定めて段階的に解体する」こと。これは例えるなら、100km制限の道で120kmで走っている「違反車」が、急ブレーキを踏むのではなく、期限を定めて100kmに減速するという案です。期限を定めるというのが重要で、その決意がなければ1の方法を取るしかありません。そうしなければ憲法が死にます。しかし、この第三の案なら、何とか立憲主義の範囲内で、我々の憲法にもう一度魂を入れ直し、その理念を実践する道筋を描くことができるのではないでしょうか。もちろんそれは楽な道ではなく、命がけの茨の道です。しかし、それを敢えて選択するかどうか、我々一人一人が自分で考えて決めるべき問題です。生き方、死に方に正解、不正解はないのです。ただ、何を選択するか。何のために?普遍の真理のために生きること、死ぬことは、命の使い方としては上等なのではないでしょうか。